吉の家の歴史
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吉の家の歴史

◆1879年(明治12年)
初代吉野銀之助が銀座で創業
明治座の中に小間物屋 吉の屋を出店したのが始まり
銀座8丁目に店を構える

●2代目亀之助の妻 万寿(ます)
働き者で評判の嫁、商いを大いに伸ばし、
100歳まで生きた銀座の名物おばあちゃんとして
名を馳せる

◆1949年(昭和29年)
3代目 銀之助の時、妹の寿美江(先代)が、
現在の赤坂2丁目に出店

◆1986年(昭和61年)
同地にて、4代目(現・代表)赤坂MYビルを建設
資生堂化粧品の店 ラクルールを1Fに分け、
吉の家を2Fに移し、落ち着いた雰囲気でお客様を
お迎えできるようリニューアルオープン

↑↑ 昭和30年代当時の袋

二代目(先々代) 祖母 万寿(ます)

初代銀之助は子供がなく、兄の子供、亀之助をもらってそれに嫁をもらった。 この嫁が大変な知恵者で働きもの、吉の家の礎を築いた。 その嫁というのが浅草福井町の下駄の老舗、升屋の娘であった。 その名を富田万寿(ます)という。 万寿は下駄を背負ってほうぼうを売り歩くので『女小僧』のあだ名が付いていた。

その娘が吉の家の二代目亀之助の嫁となった。 舅である銀之助はやかましい人で、誰が嫁に来ても持たないと噂をされていた。 ところが、万寿が来てみると、最初から一度も小言を言ったことがない。 万寿のあまりの働きに感心してしまったからである。

万寿は吉の家に嫁ぐと商家のDNAを発揮、明治45年のことであった。 当時、店のあった銀座8丁目界隈は日吉町といい、芸妓屋が多くあった。 ここで商売をするには町の女性に権力を持っている髪結いに取り入るに限ると考えた。 当時、芸妓衆が詰めかけていた、お千代、お文、お竹といった髪結いに通った。 万寿は下駄屋の出なので、髪結いの家で汚れた下駄をきれいに拭き、破損しているものは次から次へと修理をしていった。 芸妓衆はいつの間にか自分の下駄がきれいになっているので驚くと、髪結いのお千代さんから、「吉の家さんの嫁さんがやったんだよ。 今度、吉の家さんで買ってあげてちょうだい。」と声をかけてくれた。

白粉、紅、花かんざし、籠つき扇子入れなどを商ったが、飛ぶように売れる。 ほうぼうの料亭から万寿に声がかかった。何でも買ってやるから持って来いと。 料亭の女将も芸妓衆も万寿を可愛がって、買ってくれた。 

新橋の芸妓衆が、大阪や京都に移り、やがて、台湾や朝鮮にも流れて行った。 この人たちが注文して来た。 大正から昭和初期には、吉の家は毎月台湾や朝鮮向けの荷を発送していた。

当時、毎月の丑の日に売り出す紅は縁起がいい、牛紅といわれていた。万寿は、新橋から築地、さらには、芳町から浅草、辰巳の花柳界までまわって、紅の皿を集めて歩いた。 当時の紅は皿にべっとりつけてあって、その小皿ごと買われていたため、芸妓衆などはそのお皿がたまってしまう。 そこで、芸妓衆のところを回って、皿を集め、きれいに洗い、裏にその家の名前を入れ、牛紅を計り売りしていった。 面白いように売れた。 問屋曰く、東京一の売上だという。

そんな、商売上手の祖母万寿は、銀座の名物おばあちゃんとして、100歳と9か月まで長寿を全うした。

吉の家の女将は代々、働き者で 。
私の母、私の妻、息子の嫁と、歴史は繰り返す。。。 

銀座の名物おばあちゃんとして雑誌にも

三代目(先代) 母 寿美江

↑↑ 先代の母・寿美江が作った芸者衆の人形
↑↑ 先代の母・寿美江 店頭にて
↑↑ 先代の母・寿美江 こんな女優のような写真も
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